東京・渋谷、スクランブル交差点を見下ろす高層ビルの5階。
洗練されたアパレルショップ「STYLE MATRIX」で、ミサコ(26)は鏡に映る自分の姿を確認していた。
白いブラウスのカラーを整え、紺のジャケットの袖を軽く引く。完璧な販売員の身だしなみ。
「おはようございます、榊原さん。今日も素敵な笑顔ですね」
新人の佐々木佳代子が、朝の挨拶を交わしにやってきた。
ミサコは自然な笑顔を返す。
ミサコは、売上部門賞3期連続受賞、新人教育でも高い評価を得る彼女は、店舗の顔的存在だった。
「今日は朝から新作の展示会があるんですよね。楽しみです」
その言葉にミサコは一瞬、強張りかけた表情を隠すように棚の商品を直し始める。
展示会──。それは彼女の人生を変えることになる出来事の始まりだった。
「ミーティングルームに集合!速水部長からの訓示よ」
フロアマネージャーの声が響く。
速水真理子。
40代後半、NYでの華々しい実績を引っ提げて着任した新任バイヤー部長だ。
鋭い眼光、完璧なスーツ姿、その存在感は場の空気を一変させる。
「皆さんにお知らせがあります」
速水の声が、静まり返った会議室に響く。
「来季のバイイング部門で、研修生を1名募集することになりました」
ミサコの心臓が高鳴る。
バイヤー。それは彼女の夢だった。
10年前、この業界を震撼させた伝説のバイヤー、「沢渡麗子」のような存在に──。
「・・・ただし!」
速水の目が、一瞬ミサコを捉えた。
「この業界に必要なのは、強い精神力です。メンタルが弱い人間に、バイヤーは務まりません」
その言葉に、会議室の空気が凍る。
業界の噂を知る者なら、誰もが察していた。
10年前、「完璧なコレクション」と呼ばれる伝説的な企画を残して突然姿を消した沢渡麗子への当てつけだということを。
「では、研修希望者は今週中に申請を」
速水はそう言い残して、颯爽と部屋を後にした。
ミーティング後、ミサコは自分のロッカーで一枚の雑誌を取り出した。
10年前の『Fashion Focus』。
表紙を飾る麗子の凛とした姿。
「完璧なコレクション」特集の記事。
何度読み返しても、その言葉は彼女の心を揺さぶる。
『ファッションは、人の心に寄り添うものでなければならない』
・・・しかし、その麗子が なぜ突然姿を消したのか。誰も知らない。
ただ、最後の展示会で速水との激しい対立があったという噂だけが、かすかに残っている。
ミサコは深く息を吸い、研修申請書に記入を始めた。
夢への第一歩。しかし、それは同時に彼女を奈落へと導く扉を開くことにもなった──。
「榊原さん、おめでとうございます!」
バイヤー研修生への選出が発表された翌日、佐々木佳代子が小躍りしながら駆け寄ってきた。
「あ、ありがとう」
嬉しさと緊張が入り混じる思いで、ミサコは微笑む。
しかし、その表情は次の瞬間、凍りついた。
「沢渡麗子の二の舞にならないことね」
速水部長が、氷のような視線を投げかけながら通り過ぎる。
その日から、ミサコの生活は一変した。
朝一番での展示会出席、日中の接客、夜は企画書作成。
休憩時間さえ、資料とにらめっこの日々。
寝る間を惜しんで、麗子の残した企画書を研究した。
「あなた、頑張りすぎよ」
同期の山田ユキが心配そうに声をかける。
しかしミサコの耳には、それさえも届かない。
完璧な企画を。完璧な提案を。完璧な自分を──。
部屋の壁には麗子の記事が貼り巡らされ、スマホには商品データが溢れかえる。
食事を摂る時間すら惜しんで、ミサコは企画に没頭した。
そして、運命の展示会前夜。
「この企画書、全面的に書き直しね」
速水部長の冷たい声が、深夜のオフィスに響く。
「明日の朝一番、プレゼン予定を変更したわ。あなたのプレゼンを最初にするわよ」
「え...でも、それは...」
「文句があるの?それとも、やっぱりメンタルが弱すぎる?」
帰宅後、ミサコは必死で企画書を修正し続けた。
しかし、頭が冴えない。
心臓が異常なまでに早く打っている。息が...息が苦しい。
翌朝。 重役や取引先が集まる会議室で、ミサコの声が震えていた。
プレゼン資料と違う順番で商品が並べられている。
昨夜の修正が反映されていない。
すべてが、すべてが間違っている──。
「榊原さん?大丈夫ですか?」
誰かの声が遠くで響く。 視界が狭まっていく。 息ができない。
気がつけば、救急搬送の車中だった。
「適応障害ですね」
診断は、あまりにもあっけないものだった。
「2ヶ月の休職を要します」
自宅に戻ったミサコは、ぼんやりと壁に貼られた麗子の写真を見つめていた。
そうか、これが麗子の感じた重圧だったのか──。
部屋に転がる企画書の山。完璧を求めすぎた自分。
そして、真っ暗な未来。
スマホが震える。LINEだ。 同僚の山田ユキから。
「体調はどう?みんな心配してるよ」
返信する気力もない。 ただ、麗子の最後の言葉が、頭の中でぐるぐると回り続ける。
『ファッションは、人の心に寄り添うものでなければならない』
そう言った麗子は、なぜ姿を消したのか。
そして自分は、このまま消えていくしかないのか──。
*
休職2週間目。 ようやく、少しずつ眠れるようになってきた頃。 佐々木佳代子が差し入れを持って訪ねてきた。
「先輩、これ」 差し出されたのは一冊のパンフレット。
『心を癒すメンタルトレーニング講座』
「ユキさんと一緒に探したんです。通信制だから、自分のペースで学べるみたいで...」
その言葉に目を潤ませながら、ミサコは久しぶりに心からの笑顔を見せた。
休職中も気にかけてくれる同僚と後輩。
心の奥底で、温かいものが少しずつ溶け出すのを感じる。
講座の内容は、シンプルだが奥深いものだった。
毎週届く教材と課題。 そして週2回の電話コーチング。
最初の電話コーチングで、石原さんという女性コーチと出会う。
「どんな小さな変化でも、それはあなたの一歩なんですよ」
優しい声に、少しずつ心を開いていく自分がいた。
山田ユキからはLINEが届く。
「速水部長、相変わらず理不尽なことばっかり。でもみんなで跳ね返してるよ。あんた、ゆっくり休んで、また一緒に戦おう」
仲間の存在が、彼女の心を支えていた。
そして・・・運命の日は突然訪れた。
休職1ヶ月目。体調が少し良くなり、散歩がてら都内の閑静な住宅街を歩いていた時だった。
小さなヨガスタジオの前で、ミサコは立ち止まる。
「沢渡麗子」
看板に記された名前に、思わず目を疑う。
しかし間違いない。
髪は短く、シンプルな服装ながら、凛とした佇まいは10年前のままだった。
「よく来てくれました」
麗子の静かな声に、ミサコは思わず涙がこぼれそうになる。
「あなた、私と同じ顔をしているわね」
麗子の言葉に、ミサコは我慢していた感情が溢れ出す。
泣きじゃくる彼女に、麗子は静かに続けた。
「完璧なコレクション。あれは失敗作でした」
意外な言葉に、ミサコは顔を上げる。
「人の心に深く入りすぎた私のコレクションは、見る人の魂まで縛ってしまった。気づいた時には、もう遅すぎた」
麗子は遠い目をしながら語り始めた。
速水との確執。限界まで追い込まれた日々。
そして、敢えて姿を消すことを選んだ理由。
「完璧を求めすぎることは、自分も周りも傷つけてしまう。その代償を、私は学んだの」
ミサコは、教材の中の「不完全でいい日記」を思い出していた。
毎日の小さな成功を書き留めるワーク。
「完璧な私」を手放す練習。
電話コーチングで石原さんが言っていた言葉が蘇る。
「完璧にできなくて当たり前。それを認められることから始めましょう」
麗子は微笑んだ。
「ファッションは、本当は不完全な人間の個性を輝かせるものなのよ。完璧な人じゃなく、一人一人の『らしさ』を引き出す服。それに気づくまでに、私は10年もかかってしまった」
夕暮れの街に、優しい風が吹いていた。
ミサコの心に、新しい何かが芽生え始めていた。
*
「お帰りなさい!」
休職期間を終え、STYLE MATRIXに戻ったミサコを、スタッフの歓声が迎えた。
佐々木佳代子の目は涙でうるんでいる。
山田ユキは照れ臭そうに肩をたたく。
「また戻ってこれて、よかった」
そう言える自分がいる。
もう、完璧を求めて自分を追い詰める必要はないのだと、ミサコは知っていた。
「あら、戻ってきたの?」
速水部長の冷たい声が響く。
「でも、バイヤー研修の枠は、もう埋まってるわよ」
かつてなら、その言葉に打ちのめされていただろう。 でも、今は違う。
「はい、でも私、新しい企画を考えてきました」
ミサコの声は、静かだが芯が通っている。
「個性を活かすコレクション」
企画書には、そう記されていた。
「従来のトレンドに合わせるのではなく、一人一人の個性に寄り添うファッション。完璧な服ではなく、その人らしさを引き出すアイテム」
プレゼンを聞く速水の表情が、僅かに揺らぐ。
「ナンセンスね。そんな考えじゃ、売上は見込めないわ」
しかし、その声には以前のような冷酷さがない。
「速水部長」
ミサコは真っ直ぐに見つめた。
「部長も、完璧を求めすぎて苦しかったことはありませんか?」
一瞬、速水の目が見開かれる。
「私たちはファッションを通じて、誰かの人生に寄り添える存在になれるはず。完璧な売上じゃなく、一人一人の心に届く服を」
会議室が静まり返る。 そして──。
「面白いわ」
意外な言葉に、全員が驚いて速水を見つめる。
「じゃあ、来月の展示会で、その理論を証明してみせなさい」
それから1ヶ月。 ミサコは新しい企画に没頭した。
でも、今度は違う。 無理な徹夜などはしない。
休憩はしっかり取る。 同僚と協力しながら、一歩ずつ前に進む。
講座で学んだ「自己受容」を、仕事にも活かしていく。
石原さんとの電話コーチングで、迷った時の対処法も身についていた。
そして展示会当日。
「これが、私たちの提案する『個性を活かすコレクション』です」
プレゼンの間、速水の表情は硬いままだった。
しかし発表後、意外な言葉が返ってきた。
「合格よ。でも条件があるわ」
速水は深いため息をつく。
「このプロジェクト、私も一緒に入ります。」
その言葉に、会場がざわめく。
「私も完璧を求めすぎて、大切なものを見失っていたのかもしれないわね」
速水の目が、かすかに潤んでいた。
後日、ミサコはヨガスタジオを訪れた。
「新しい扉が開いたようね」
麗子は穏やかな笑顔を浮かべる。
「はい。これからは、完璧じゃない、でも一人一人の個性が輝くファッションを届けていきたいんです」
「それが、本当のファッションの力ね」
麗子の言葉に、ミサコは深くうなずいた。
窓の外では、新しい季節を告げる風が吹いていた。
***
STYLE MATRIXの新企画「MY STYLE」が話題を呼んでいる。
完璧を求めず、一人一人の個性に寄り添うファッション。 その立役者である榊原ミサコのもとには、今日も多くの人が訪れる。
「完璧じゃなくていい」
彼女はそう言って、優しく微笑む。
「あなたらしさが、一番似合う服だから」
教材はテキストと動画で構成されており、初心者でも安心してスタートできます。
スキマ時間を活用して学べるので、忙しい方でも無理なく取り組めます。
2年後──。
「榊原さん、パリの展示会のセレクト、やっぱりすごいですね!」
新人バイヤーの田中京子が、目を輝かせながら語りかける。
「ありがとう。でも、これは私一人の力じゃないわ」
STYLE MATRIX本社45階のバイヤーオフィスで、ミサコは微笑んだ。
あれから2年。
「MY STYLE」プロジェクトは、業界に新しい風を吹き込んでいた。
完璧な型にはまらない、一人一人の個性を大切にする服作り。
それは、従来の常識を覆す挑戦だった。
「榊原チーフバイヤー、次のミーティングの準備ができました」
速水部長の秘書が声をかける。
チーフバイヤー──。
かつての夢が現実になっている。
でも、それは昔憧れていた「完璧なバイヤー」とは違う形だった。
「最近は新人の相談も多いんですよ」
ミサコは机の上の写真を見つめる。
そこには、チームメンバーと笑顔で写る自分の姿があった。
「みんな、最初は完璧を求めすぎちゃうんです。でも、それは仕方のないこと。大切なのは、そこから一歩ずつ自分らしさを見つけていくこと」
机の引き出しには、今でも講座の教材が大切に収められている。
時々、新人スタッフの相談に乗る時の参考にするという。
「ところで、沢渡さんのヨガスタジオ、この前行ってきたんです」
田中京子が嬉しそうに話す。
「なんだか不思議な空間でした。服のことを忘れて、自分と向き合える」
ミサコは静かにうなずく。
麗子のスタジオは、今では業界人の密かな癒しスポットになっていた。
「そうそう、速水部長が言ってましたよ。来季から、メンタルヘルスケアの研修も必須にするって」
田中の言葉に、ミサコは懐かしい思い出が蘇る。
アパレル業界は、少しずつ変わり始めていた。
完璧を求めすぎない。
でも、だからこそ見える新しい可能性がある。
窓の外では、渋谷の街が夕暮れに染まっていく。
ミサコは立ち上がり、コートを手に取った。
スクランブル交差点に灯りがともる頃。 ミサコは、新しい季節の企画書に向かって歩き出していた。